闇の中、目をこらす。
ヒトよりも優れた感覚器は暗視カメラ顔負けの精度で目的物を探り当てる。白い踵。そこを起点に視線で身体の稜線を辿ると、やすらかな寝顔にたどり着く。
「みなみ?」
吐息と大差ない小声で呼んでみた。が、小柄な体を丸めるようにして眠りこける同居人は、より一層身を縮めて呼び声をやり過ごす。
小動物を思わせる姿に、自然と頬がゆるむ。はだけられ、役目を果たせずにいた掛け布団と一緒にリーザレインはそっと彼女に寄り添った。夜のバイトから帰ってすぐ、風呂にも入らず眠りに就いたのだろうか。彼女のものではない香水や酒の移り香が鼻腔を刺した。
「……ごくろうさま」
まぶたにかかる髪の毛を指先で払いのけてやる。絹糸を思わせる手触りのそれは、指にひっかかることなく滑り落ちた。何度も何度も、飽きずにすくい上げては放す。その繰り返し。
すいすいと穏やかな寝息を聴いていると、祈りたくなった。
どうかこのまま、この人の傍にいられますように。
許されるはずもない祈りを、胸の内だけで呟いた。
いつか彼女を喰い殺してしまうかもしれない。
いつか彼女はあたしを見捨てるかもしれない。
友人でもなければ恋人でもない。血の契約によって成り立つ、家族と言うにはあまりに脆弱なこの関係を、いつまで続けることが出来るのか。
捕食者と餌。もしくはペットと飼い主。
「んむぅ……」
言語になりきれていない声と共に、リーザレインの元へ手が伸ばされる。それはしばし探るように空を掻いていたが、やがて布地を掴んで落ち着いた。ぬいぐるみがなければ眠ることもままならない子供のように、握りしめた拳を抱き込む彼女。
襟首を掴まれたリーザレインはというと、振りほどくことも可能な甘い拘束に、しかし動けないでいた。
「みな……み?」
返事は無い。ただ寝ぼけているようだ。
だが声に反応してか、わずかに瞼が震え一層強い力が腕に加わった。
「おきて、ないよね」
息がかかるくらい近くで、あらためて同居人の顔を見つめた。普段はよく変わる表情で幼げに見える彼女だが、感情をそぎ落とし、純粋にその造りだけを見れば、驚くほど整った容貌をしているのがわかる。きれいだ、と素直に思う。
耳に響く一定のリズム。
頭を胸に抱きしめられている体勢なので、心臓の鼓動が直に聞こえる。もう少しよく聴きたくて、起こさないようあと少し近づいてみた。二人の間の距離はゼロになり、二人を隔てるものは互いが身につけた衣服のみになる。
暖かな体温と、柔らかな感触と、雑多な匂いの底から香る、彼女自身の香り。それらに包まれ、うっとりと目を閉じる。
「ねて、るよね」
なんだか後ろめたくて、確認の意を込めてもう一度呼びかけてみた。
出来れば、起きて欲しくはないのだが。
「ん……んぅ?」
「! みなみっ?」
「……ぁ、リーザ。おはよ」
よこしまな願いは、神様のお気に召さなかったらしい。
寝起きでうるんだ黒い瞳で、同居人、北原美波は気の早い挨拶をした。
至近距離にある顔には特に頓着せず、微笑む北原。起き抜けで目の前に誰かがいたら普通は驚くはずなのだが。よっぽど肝が座っているのかそれとも単に抜けているだけなのか、さしてこれといったリアクションも取らずに、微笑む。大物と見るか大間抜けと見るか、難しいところだ。
「ごめん、みなみ、おこしちゃった?」
「……だいじょぶ。今起きたとこ」
「や、その、なんかそのいーかた、ヘン」
「でね、今ね、海にいた。リーザもいたっしょ」
「う、うみ?」
「そ、海。いーよねー、白い砂浜、青い海。日本海とか行きたくない?」
話が噛み合わない。思考能力の大半をまだ夢の中に置いてきているので、言動がずれっぱなし。
上体を起こそうとする北原は、さすが寝起きなだけあって、どこに背骨があるのかわからせない。リーザレインは今にも後ろへひっくり返りそうになる同居人を慌てて片手で支えた。
布団の上で、何故か二人正座で向かい合わせに座り込む。
「おこしちゃってホントゴメン。まだねてていいよ。ねむいでしょ?」
「んー? うん、眠いねえ。リーザは、おなかが減ったの?」
……ずれたままの会話は修復するのに時間がかかりそうだ。
ともかく、危険ワードの気配を感じ、慎重に会話を進めて無事寝かしつけることを胸に誓う。慎重に、慎重に。一歩でも間違えたら……そこは地雷源。
「いや、へってないけど、」
まずは会話を続けて、北原の注意をそらすことが何より大事。ほんの少し油断したら……そこは天国。
なんでもいいとにかくなにか言わなきゃあの言葉を言わせちゃいけないなにかなにか続けなきゃでないと、
「んじゃ食べてもいーよ」
「……」
脈絡が無い、ということがこんなにも恐ろしいとは、リーザレインは知らなかった。最も恐れていたキーワードがあっさりと言い放たれるのを、ただ聞くことしか出来なかった。
北原はシャツに手をかけた。小さな手は、ためらうことなく、的確に、ゆっくり、動いた。
「おなか空くとせつないっしょ? 私はほら、だいじょぶだから、ね?」
ひとつ、ふたつ、ボタンがはずれる。
今更腕を抑えたところで、何の意味も無い。
「や。だいじょぶ、へーき、まだイケル。あのホラ、ちょっとたべなくても、吸血鬼しなないから」
シャツの合わせ目から覗く白い肌から、九十度顔をそらして、必死になって見ないよう努めた。これまでの同居生活の成果で、多少の耐性がついているのだ。見さえしなければ、大丈夫。きっと大丈夫。
が、それでも限界はある。
「……み、みなみ」
「んー? なんだい?」
脳髄を侵してゆく獲物の匂い。一度その甘美さを覚えてしまった躯は、あらがう術を知らない。
こんなことしたくないのに。
「いいの? その、たべても」
これの為に、彼女の傍にいたいと願っているのではないのに。
中途半端に伸ばした腕のやり場に困る。
「ん。いいよ。ってか、なーに遠慮してんのぉ」
やわらかい中にも芯のある声とか。袖を掴んでくる指の細さとか。触れた先から伝わってくる、起きぬけでやや高めの体温とか。
五感の一つ一つが餌の発する信号を捉える度に、ざわざわと胸の内が波立つ。捕食者としての本能がそうさせているのだろう。
こちらの気も知らずに微笑む北原。その表情がなんだか癪に触って、少し乱暴に小柄な身体を腕の中に捕らえる。けして強い力で抱きしめるわけではないけれど、そこまでしてやっと、腕が収まるべきところに収まった気がした。そしてそんな安堵とはうらはらの、体の奥底から沸き上がる獰猛な歓喜。理性と本能のせめぎあいに目眩をおぼえながら、それでも悟られぬようこっそり生唾を飲み込んだ。
こちらを見上げて微笑む、伯爵の花嫁、むさぼられし者、永遠の盟友。
どんな呼び方でも構わない。彼女がそう呼ばれることで傍にいられるのならば、いくらでも、ふさわしく振る舞ってやる。
リーザレインの胸に背を預ける格好で、相変わらずいいクッション具合だねえ、なんて軽口を叩く獲物の首筋に顔を寄せた。荒ぶる衝動を押さえるためにも、食前の挨拶を口にする。
「じゃあ、その……いただきます」
「どーぞ召し上がれ?」
一度血液を口にしてしまうと、吸血鬼は血液依存症に陥ってしまう。
しかし、リーザレインは、思う。
もし自分が依存症だとしても、きっと、それは、北原そのものへの依存。
そう、信じたかった。
唇で、牙で、舌で、北原に触れる。
マシュマロを連想させる肌は、甘かった。
【FIN】