飼い主の憂鬱

 闇の中、目をこらす。
 もうすっかり暗闇に慣れた感覚器は人並みの精度で目的物を探り当てる。白い爪先。そこを起点に、視線で身体の稜線を辿るがまま肩ごしに振り返ると、心配そうにこちらを見つめるこげ茶色の瞳とかち合う。
「だいじょぶ。だいじょうぶだよ」
 行為の後のけだるさに身体を支配されながらも、背を預ける同居人を安心させるため、微笑む。
 そうしなければリーザレインは、捕食者として当然の行為を忌避するこの幼い吸血鬼は、また余計な心配をしてしまうから。
「でも、みなみ、」
「リーザ、いつも手加減してくれるっしょ? 献血より楽だよ。リーザに食べられるのって」
「……だって、また、きずついちゃった」
 視界からリーザレインの顔が消えた、と思ったら首筋を暖かく濡れた感触が這う。牙によってつけられた真新しい傷口を、傷つけた当人の舌先が清めているのだと、すこし遅れて気付いた。
「くすぐったい」
 そんなことをされると、身体の奥で種火のようにくすぶっていた行為の余韻が、また刺激されてしまう。気付かれたくなくて、わざと大げさに体をよじる。
「あ、ゴメン」
 叱られた小犬を連想させる声音と共に、すばやく感触が離れた。あ、と思ったときにはもう遅い。舌打ちをしたい気分で、でもそんなこと感じさせない顔で、振り返る。
 予想したとおりの表情。おどおどとこちらを伺う目に北原は、弱いものいじめをしている気分を味わう。感情の、最も温度の低いところをそっと指でつつかれるような、刺激。
 どうしても安心させたくて、
「リーザ、やめちゃうの?」
「え、だって、」
「いいよ続けて。……ううん。続けて、ほしいな」
 おびえさせる原因となった行為を続けるよう促す。
「ん……じゃあ……」
 再び北原の肌を撫ぜるぬくもり。今度は密やかに密やかに、細く息を吐いた。
 これが、獣が傷を癒やすための行為であることは、理解できている。恥ずべきは自分の方なのだと北原は自らを呪う。
「ん」
 わずかに尖らせた舌先の、傷口をえぐるような動きに思わず声が出る。慌てて口を閉ざし、リーザレインの様子をそうっと横目で伺うと、真摯な横顔が髪の間から覗いた。切れ長の目尻にとおった鼻筋。初めて出会った満月の夜にも思ったことだが、驚くほど整った容貌をしているのがわかる。きれいだ、とあらためて思う。
 あの夜リーザレインと出会ってから、おそろしく目まぐるしく、しかしとても楽しい毎日が続く。
 毎日がお祭り騒ぎみたい。
 胸に潜む一抹の不安から目を逸らしていることを、自覚しながら。そう、友人にもらしたのはさほど昔のことではない。
 そして決意も同じ時、同じ友人に告げたのだ。
 伯爵の花嫁、むさぼられし者、永遠の盟友。
 どう呼ばれても構わない。自分がそう呼ばれることで彼女が傍にいてくれるのならば、いくらでも、どんな風にでも振る舞ってみせよう。
 その程度の事しか、自分には出来ないのだから。
 一定の間隔で響く水音。
 心音にも似たそのリズムは心地よかった。目を閉じて、自らの全てをリーザレインに預ける。
 五感の一つを閉ざすと、北原美波の世界は途端に狭まった。そこに存在するは、北原の肉体と精神。そして背後の柔らかな存在、彼女と北原の協同作業で生まれる音。
 その音が、ふいに止んだ。つられて閉じていた目を開いた。
「?」
 目顔で問いかけると、残念そうに一言。
「血、とまっちゃった」
 すうすうと風通しの良くなった首筋に当てた掌を確認してみると、もう紅い色は付かなかった。
「カットバン、はっとく?」
「ん。いーや、このままで」
「でも」
「またミサに、キスマーク隠しかよってからかわれちゃうよ」
 友人の、あまりにもあんまりな揶揄を思い出す。恋人同士の幸せな情事の痕を引き合いに出した、子供っぽいからかい。
 確かにこの行為は、それに酷似しているのだが。
 それでも何かが、決定的に違っていると思う。
 例えばそれは、当事者たちの行為に抱く想いとか。
 北原とリーザレインの、互いに抱く感情とか。
 そういったものが、たぶん、違っている。
 少なくとも北原はそう考えている。
「バイキン、はいったらたいへんだもん」
 救急箱を取ろうとしているのか離れようとする気配を察し、とっさに黒いワンピースの裾を掴んだ。
「いいよ、後で。それより、さ、も少しこのままでいて、リーザ」
「……うん」
 長く間を置いてからか細い返事が返ってくる。そして暖かなものに包まれる体。回された腕につかまると、腕の輪はほんの少しだけ狭くなった。ほんの少しだけ。たぶんそれが、自分とリーザレインの距離なのだろう。そんな考えに思い至り、北原は表情を変えずに鼻の奥の痛みをこらえる方法を探そうと必死になった。
 どのくらいの間そのままの姿勢で過ごしただろう。
 時間感覚はとうに奪われ、部屋の音響を支配するのが時計の音だけにもかかわらず、音の主を見ようともしないため、時刻がわからないまま時だけ無為に流れてゆく。 
 互いに何も語らず、ただ、暗闇の中寄り添って。
 ゆらりゆらりと、やがてゆりかごのようにリーザレインは体を左右に揺らし始めた。それは遠い昔の記憶を喚起させるもので、連鎖反応のごとく瞼が重くなる。夜遅くまで働いていた北原にとって、これほど効果的な睡眠導入剤は無い。
 効き目は絶大。瞼によって視界が閉ざされる時間がだんだん長くなってゆく。
「みなみ? ねむいの?」
 遠いところで声が聞こえる。声に応えたくて何かを口にした気がしたが、睡魔に侵された状態できちんと応えられたか自信がなかった。
 ただそれでも体を包む暖かさと柔らかな感触を失いたくなくて、手探りで布をかき集めて掴む。指が白くなるくらい、強く。
 抱きしめてくれている吸血鬼の困惑を最後に確認し。
 父の背におぶわれているような心地で。
 北原の意識は拡散していった。

 いつも、思う。
 友人でもなければ恋人でもない。血の契約によって成り立つ、家族と言うにはあまりに脆弱なこの関係を。
 望んでいるのは、自分の方なんだと。
 捕食者に搾取される餌としてではなく、飼い主として吸血鬼という愛玩動物を。
 縛っているのは、自分の方なんだと。
 そして、それでも離れることなど、手放すことなど出来ないで。
 叶えられたことのない願いを胸に抱き続けている。
 どうかこのまま、この子の傍にいられますように。
 どうかこのまま、この幸せな日々が続きますように。
 どうか、どうか。
 神を知らない北原の祈りは炭酸の泡のようにはじけて溶ける。

【FIN】




モドル