夏いろは

 祖母の家の縁側が好きだった。
 ひろびろとしたそこで、スケッチブックを広げて絵を描くのが好きだった。
 私が当時住んでいた家は、典型的な公団住宅で。縁側と最も類似しているはずの我が家のベランダは、エアコンの室外機や物干し台に占領されていた。とてもじゃないけれど、人が長いこといられる場所じゃなかった。
 だから、夏休みや冬休みに祖母の家を訪れるのがとても楽しみだったのだが、この年は違っていた。
 家族三人で行くはずの帰省は、その年は一人だけで行くことになった。
 理由はありきたりで、両親が離婚について話し合うため。私は蚊帳の外。子供なのに。子供だから。
 私はそのことに薄々気付いていて、ひどくすさんだ気持ちを抱えて。……だから、あんなことをした。

 七月のうちに宿題をほとんど済ませていた私は、やることもやる気も無くて。ただぼうっとスケッチブックに向き合っていた。
 おじさんもおばさんも畑に出ていて、昼過ぎにならないと帰ってこない。
 祖母は大正琴の集いとかで、昨日から二泊三日の旅行に出ている。
 年上のいとこたちは皆、それぞれ部活とか夏期講習とかで出かけている。
 皆、一人でやって来た私にどこか気を遣っていて、それはありがたい反面気詰まりで。
 今こうやって一人でいられるのは、楽だった。

 蝉の鳴き声が止み、風が縁側を通り抜けて風鈴を揺らす。
 刺すような日光はここまでは届くこともなく。届いたとしても、庭先の樹に遮られオリーブグリーンに染まった光の欠片だけ。
 大好きな縁側で、穏やかじゃないのは、私の心だけ。
 画材箱から適当に引っ張りだしたソフトパステル。これまた適当に一本取って、見もせずに線を引く。落書きにもならない、ただの線。一本。二本。三本。四本。
 線が何かを形作りはじめて、それが何であるのか見極めようとしたその時。肌色の線の集合体に影が射した。見上げれば、細い腕。腕が下げているのは竹竿とバケツ。さらにその上にはよく日に焼けた顔。
「アイちゃん、アメザリ釣り行こー!」
 マコト。一つ年下の、いとこ。たしか今年中学校に入ったはずなのに、やたら子供っぽい、いとこ。
 子供っぽいくせして、何か家族から聞いているのか、やはり彼女もどこかいつもと違って。
 イライラする。
 イライラが、そのまま口をついて出た。
「行かない」
「じゃ、明日。明日一緒に行こ。すっごい穴場見っけたんだよ。でっかいのがわさわさたくさんでさあ」
「一人で行けば」
「アイちゃんを連れてったげたいんだよう」
 可愛らしく口を尖らせるのは、本気で拗ねてないときのマコトの癖だ。こちらの気を引こうとする声、仕草が、ささくれた神経を逆なでする。
 別にマコトのことは嫌いじゃないし、何度も一緒に遊んでる。ザリガニ釣りも嫌いじゃないし、蝉取りも、フナ釣りも。こっちでしか出来ない遊びはどれも新鮮で面白くて好きだ。
 けど、今日は、違った。
 トゲトゲした何かが私の中にずっと溜まっていて。それは、私を傷つけ、また他にも獲物を欲しがっていた。
 傷つける相手を、欲しがっていた。
「いいからほっといてよ」
 吐き捨てるように言ってやっても、マコトは離れようとしない。それどころか私の隣であぐらをかいて、てこでも動かない、という風にしてみせる。
 こういうところが、いつもと違う。
 私が行かないと言えば、マコトはそれにおとなしく従った。たとえば一人で遊びに行ったり、もしくは絵を描く私の隣で、マンガを読んだり宿題をしたり。特に、私が一人になりたいサインを出しているときは、近寄ろうともしなかった。
 なのに。
 このサインがわからないほどバカでも鈍いわけでもないはずなのに。
 マコトはなおも言い募る。
「アイちゃんが家ん中好きなのは知ってるけどさあ、ウチ来てからずっと外出てないじゃん。たまには外で遊ぼうよー。なんつーのほら、キブンテンカンってやつ?」
「私はいそがしいの」
「なんもしてないじゃんかー」
 うるさい。
 不満気な声を聞き流しながら、手元に目を落とす。
 スケッチブックに曳かれた、いくつもの線。肌色の、線。
 私が握っていたパステルの色は、318番。ここのメーカーのパステルには色ごとの名前はついていなくて数字だけなんだけど、あえて絵の具の分類に当てはめて名付けるなら、パステルエナメル。いわゆる、象牙色。
 どうしてこんなことを思いついたのかわからない。
 でもたぶん、それは。
 マコトの着ていたタンクトップ。
 肩口からのぞく、パステルエナメルのせい。
「じゃあ手伝って」
「え、なになに」
「モデルになって。絵の」
 おおモデル、と妙に感心した口調のマコト。バカ。すごいバカ。今から何をされるのかも知らないで。
「ね、ね、ポーズとかとるの? グラビアみたいな? あたし胸あんま無いよー?」
 ふざけて薄い胸を強調する格好をしてみせて、笑う。そんな軽口、すぐに言えなくなる。
「脱いで」
「へ?」
「脱いで。ヌード描くから」
 ただでさえ丸い目をますます丸くさせてマコトは絶句する。そりゃそうだろう。
 いくらマコトでも、これが嫌がらせだってことくらいわかるはず。
 脱げっこない。そう、私は高をくくっていた。
 なのに。
「わかった。脱ぐ」
 マコトは立ち上がり、タンクトップの裾に指をかける。
「それでアイちゃんが……なら、脱ぐよ」
 マコトが何を言おうとしたのか、声が小さくてきちんと聞き取れなかった。
 聞き取れたのは私の名前と、脱ぐという宣言。
 白地にオレンジのロゴの入った服がめくられてゆく。ブラどころか、スポーツブラだってまだの上半身にはタンクトップ以外身に付けていないから、息を飲む私の目の前で、あっと言う間にパステルエナメルが露わになった。
 まさか、本当に、脱ぐなんて。
 命令したのは私なのに、その結果に唖然とした。こうやってマコトの裸を見る事なんて、別にお風呂では珍しくもないのに。なんでか目が離せない。
 裸の上半身を晒して立つマコト。恥ずかしいのだろうけど、両手は下ろしたままどこも隠そうとしない。たぶんそれはマコトの覚悟。
「あのっアイちゃん」
 か細い声に私は放心を解き、マコトを構成する色たちを一つ一つ目で追ってゆく。
 短い髪は烏の濡れ羽。日に焼けた腕や肩、顔は琥珀色。日に晒されない胸や腹はパステルエナメル。胸の先や膝の治りたての傷跡は桜色。
 ざっと手持ちの画材を確認した。だいじょうぶ足りる。もっと他の色も使いたいくらいだ。
 視線をマコトに戻す。
 日に焼けた頬でもわかるくらい赤面してるマコトは、動こうとしなくなっていた。
 だから私は続きを命令する。
「下も」
 声にマコトの肩が震える。何をすればいいのかわかってるマコトは、目を合わせないまま、ハーフパンツを一気に引き下ろした。
 ハーフパンツと一緒に下着も脱いだのか、もうマコトの肌を隠すものは何一つとして存在しない。
 まだふくらみかけてもいない、肉付きの薄い、子供の身体。まだ八月に入ったばかりなのに、くっきりと水着の跡が焼き付いて、肩口と足のつけねの境目がよくわかる。足と足の間。マコトのそこはつるつるで、やわらかそうで、触ったら壊れてしまいそう。
 パステルを握る手に不自然な力がこもる。蝉の声は聞こえない。風鈴の音も、まったく。
 軽口で沈黙を破る。
「マコトのつるつる」
 私の言葉を受けて、これ以上赤くならないと思っていた顔がさらに赤くなって、
「あ、アイちゃんだって、正月一緒にオフロ入った時生えてなかったじゃんかっ」
「お正月からどれだけたったと思ってるの。ちゃんと生えました」
 嘘だけど。
 緊張でがちがちに強ばったマコトに声をかける。
「楽な姿勢でいいから。緊張しないで」
 裸になれ、なんて言ったくせに。我ながらずいぶん勝手な言いぐさ。喉の奥で笑いを、胸の中で興奮をそれぞれ圧し殺しながら、さっきの線にどんどん描き足してゆく。
 目的を持たずに描かれたはずの線たちは、あつらえたようにマコトの身体にぴったり合った。
 力を入れてひいた鋭角的な線は固そうな肘に。
 ただまっすぐな線は向こう臑に。
 緩やかに微妙なカーブを描く曲線は小さな胸に。
 一枚。また一枚と描き上がり。
 生まれたままの姿のマコトでスケッチブックの空白が埋められて。
 最後のページをめくったところで、私はようやっと筆を止めた。
「ぁ……」
 心臓の音が、うるさい。体育でマラソンした後みたいに息が荒い。
「は……はは」
 思えば。
 ずいぶん久しぶりに、筆をとった。
 もうずっと絵を描いてなかった。
 毎日バカみたいに絵を描いてたのに。
 夏休みに入ってから、暇は売るほどあるのに。
 両親の不仲に気づいた頃からずっと。
 描いてなかった。
 まだ、心臓がおさまらない。
 もっと、って言ってる。
 もっと描きたい。まだ描きたい。たくさん描きたい。描きたい。描きたい、描きたい、描きたい!
「ぁは、はは、」
「あ、アイちゃんどうしたの?」
 硬直の解けたマコトが、恥ずかしさも忘れておろおろと私を窺う。笑いが止まらない。なんて――なんて絵描きバカなんだろう私は!
 わめきたくなる熱さとは逆に、こんなにも、心は軽い。
 全部描いてしまって。私の中のもやもやを全部出してしまえば。
 きっともっと軽くなる。
 でもスケッチブックに余白はもう無い。いや、ある。まっさらな白じゃないけど。余白が。そこに。
「ね、マコト」
 しみ一つない、パステルエナメル。
「そこに、今度は横になって」
 私の今度の命令に、またマコトは応えてくれた。
「……うん」
 従順な応えに嬉しくなりながら、私は画材の詰まった箱をひっかき回して水性絵の具を取り出す。マコトに似合う色を選んでいると、
「それでアイちゃんが笑ってくれるんなら、なんだってするよ」
 さっきは聞こえなかった言葉に似た言葉が、きちんと耳に届いた。え? と顔を上げると、困ったような笑っているような、泣いているような顔のマコト。
「ウチに遊びに来てからさ、ずうっとムッとした顔のままだったんだよアイちゃん」
 ぺたぺたと畳の上を進んだ裸足が投げ出される。無防備に横たわる身体。木漏れ日がすべすべしたお腹に複雑な模様を映す。
「遊びに誘っても、おっきいスイカあげても、何してもダメだからさ。どうすればいいのかわかんなくなって。あたしバカだし。だから、アイちゃんがしてほしいことしたげたらいいのかなって」
 寝そべった姿勢で私を見据える瞳。ヘイゼルが強い光を伴って。さっきまでの絵に、瞳を描き入れてないことに気づいた。
「だから、いいよ。それでアイちゃんが笑ってくれるんなら、なんだってするよ」
 嬉しい。でいいんだと思う。今私の心を占める感情は。
「マコト……私、私……」
 私は。
 この高ぶる感情を思い切り。
 マコトの身体にぶつけた。

 強者共が夢の跡。所行無常の鐘が鳴る。……授業でやったのとなんか違う気がする。
 まあ、ともかく。下に何にも敷かないで水性絵の具なんて使ったら、こうなるに決まってる。
 飛び散る色。色。色。
 マゼンタ、ミントグリーン、牡丹、プルッシャンブルー、山吹色。
 畳の若草色を隠すいきおいで茶の間にぶちまけられた色彩の暴力。
 全身ボディペインティングされたマコトと二人、顔を合わせて共犯者の笑みを交わし合う。
 誰かが帰ってくる前に、きれいにしなきゃ。
 せめておじさんおばさんが帰ってくる前に。
 雑巾で隅から隅まで拭いて茶の間をきれいにしたら、一緒にお風呂に入ろう。嘘がばれるけど、まあいいや。
 お風呂から上がったら……ザリガニ釣りにでも、行こうか。
 【FIN】




モドル