「ミーサー。ミサミサー」
「アタシは犬か? ……なんだよ」
「せーりよーひん貸してー」
「……使った後のやつを返してくれるのか」
「んなわけないっしょ!」
「急にきたんだろ? とーぜん一日目だよな。一日目ってアレだよな。下手すっと二日目より辛いときあるよな。わりかし多めだったりとか」
「し、知らない! ミサのバカっ!」
「……」
「……」
「ほれ、忘れもん」
「……ありがと」
「後で返せよ」
「そのネタいつまで引っぱるのミサ」
重苦しい下腹部をかかえて帰宅した北原を六畳間で迎えたのは同居人。
「……みなみ、いいにおいがする」
リーザレインはおかえりも言わずにそんなことをのたまって、犬のように鼻を鳴らしてみせた。
「えっと、買い食いもしてないし、調理実習の残りも持ってないし……?」
「そういうふつうのごはんのにおいじゃなくて……血の、においがする」
「あー……今日、生理きたから、そのせいかな」
同性相手だからこその気軽さ。生理の話題なんて女子高生には珍しくもないものだから、北原はなんの気なしにその単語を口にした。しかし。
「せーりって、なに?」
「へ?」
思わぬ反応に一瞬思考が停止する。
話をすること三十分弱。
どうやら大人びた容貌とはうらはらに、リーザレインはいまだ初潮をむかえていないらしい。その事実は北原にとってかなり意外だった。
そして、きちんとした性教育を受けていないことも知る。
(まあ、まだ中学生だし、ガッコもきちんと行けてないんだからしょうがないよね)
ちなみにこの時点で、北原の悩内に人間と吸血種の間に存在するかもしれない、深くて遠い種族差などというものは存在していない。
すでに起きていることを放棄してスウェット姿で畳の上に横たわる北原を、リーザレインはしばしじっと見つめていたが。
「ね、みなみ。おねがいしてもいい?」
「? どしたのあらたまって」
「ん、えっと、そのぅ」
「なーに恥ずかしがってんのさあ。言ってごらん?」
「あ、あのね」
赤い顔で手招きされたので、ころんと寝返りをうって近づく。吐息と大差無い耳打ち。それを聞いた北原は、リーザレインよりさらに頬を朱に染めて飛び起きた。
「なぁ?!」
「ね、いいよね、みなみ」
先ほど見せた恥じらいはどこへやら。期待に満ちた眼差しが上下して、北原の身体を検分しだす。北原、思わず自分自身を抱きしめて後ずさり。
「だ、ダメ! ダメダメダメっ!」
「えー、みなみ、いっつもじぶんからたべてっていうのに」
「そ、それとこれとは違うっしょ! 全然っ!」
「ちがわなーい」
「ちっ、違うったら!」
「ねー、なんでそんなにイヤなの?」
「だ、だって、そんなの、汚いし、汚れちゃうし、恥ず、かしいし、その……」
なんか、えっちい。
アパートの一室に、ささやかなささやきが溶け、残ったのは沈黙。
ささやきを受け止めたリーザレインは困った顔で沈黙を破る。
「…………みなみ、いつものみなみも、けっこうえっちだとおもう」
「ええぇえっ!」
衝撃的な告白に目眩。
「うそー……」
なんともいえない脱力感に苛まれ、へたり込む。
かおとかー、こえとかー。と、ひとつひとつ上げ連ねてゆく言葉を無言で制し、飼い主は観念する。
「……わかった。いいよ、リーザ。して、いいよ」
だって、よく考えてみれば。
差し出せるものは、このカラダしか持っていない。
「そのかわり……」
この行為のために出した条件は三つ。
一つ、風呂場ですること。
一つ、目隠しをすること。
一つ、指で触れないこと。
全ての準備を整え、ユニットバスの狭いバスタブのふちに腰掛けた。見おろせば、素裸の下半身と、バスタブの底にしゃがみこむ、タオルで目隠しされたリーザレイン。
ひとつ、深呼吸。
「じゃあ……いいよ、リーザ」
「うん。いただきます」
視覚を奪われているにもかかわらず、迷いも惑いもせずに両膝を掴んでくる手。そっと押し広げられ、一瞬抵抗しようと足に力が入ってしまう。
「ご、ごめ、ちょっと待って」
「うん」
ふたつめの、深呼吸。
心臓の音が、うるさい。
見えてないのに。
恥ずかしい。
「……っ、いい、よ」
脚を開いて、待てのできる従順なペットを招き入れた。
明るい茶髪を見おろして、ほんの少し、後悔する。
むしろ自分の方が、目隠しをすべきだったのではないだろうか。
その方が、こんなにも羞恥をおぼえなかったかもしれない。
だって。
「ん……」
だって、このやり方は、あまりにも似すぎている。
過去に経験した行為に。
過去に戒められた行為に。
よく、似ている。
「あ」
舌に、鼻先に、唇に。
こすられて、押しつけられて、かすめとられて。
はしたない音をたてて、すすられる。
ざらり、となめ回される。
下腹が、熱い。
「く、ふぅ」
ただ、味わうためだけの為に、無言で無心に舌を使われる。
はずなのに。
「は……ぁ」
熱い、吐息。
こぼれる、声。
じわりとにじむ、経血とは異なる液体の存在。
「恥、ずっ……か、し、なあ……もぉ」
ぞくぞくする。ずきずきする。じんじんする。
身体を苛む様々な感覚をごまかしたくて、必死におどけてみせようと努力するのだが、すべて失敗。声はうわずり、とぎれとぎれで、逆に自分の状態を自覚させられる。バスタブを掴む指がすべりそう。
「……ね、リー、ザ……おいしく、ないっしょ?」
裂け目をたどる舌の動きにふるえながら、問う。問いかけに意味などない。ただ、何か口にしていなければいけないと、奇妙な脅迫観念に捕らわれてしまって。
「……ぅんん」
「っ!」
リーザレインからの、問いかけの答え。それは言語としての意味を為す音声では返らなかった。首を横に振る。それだけのしぐさ。しかし、場所が悪い。裂け目の上端、張りつめつつある小さな突起が、しぐさに合わせて鼻先で左右に揺さぶられる。まるで予想していなかった刺激に、身体もココロもついてゆけない。
「ふぁっ! ……んんぅ!」
ぎりぎりの精神にとって。ちいさなちいさな油断、髪の毛一筋ほどの傷だって命取り。
ほら、もう。
落とされる。
陥とされる。
堕とされる。
みとめて流されてしまいたい。
イヤ。
そんなのは、ヤだ。
だって。
だってこれは、リーザのおしょくじなんだから。
だから。
餌のわたしが、こんなふうに感じるのは。
「んぁあ……んく、ふ、あ、ぁあ」
のけぞる。冷たいタイルに頭をぶつける勢いでこすりつけ、その温度と硬度で理性を取り戻そうとしても、昂ぶりはとどまることを知らない。
「ぁ、やぁっ、そこ、」
裂け目の奥、狭い入り口に熱く柔らかなものが触れた。息を詰める。一拍の空白。ずるり、と体内に入り込む他者。本能が待ちこがれていた刺激。
「ぁああぁっ!」
ずり落ちることを恐れながら、震える左手をバスタブから放す。緩んで恥ずかしい声を垂れ流したままの口元へ手首をあてがい、その皮膚を強く、強く噛みしめた。
「……! ……っ! っ!」
頭はもう、羞恥とか快感とかそういったものでいっぱいで、真っ当に動いてなどくれない。
体ももう、快楽を受け取ることしかできないただの感覚器に成り果てて、まともに動いてなどくれない。
中をまんべんなく味わい尽くす動きは北原の官能を探し出し掘り起こし衆目に晒す。
薄い水のヴェールに覆われた世界の底。
いまだ解放してくれない捕食者の髪をバスタブから引き剥がした震える右手で掴む引き寄せる。
欠片ほどの理性とは真逆の行動。
水風船のイメージ。
満たされて、今にもはじけてしまいそう。
内腿を伝う薄桃色の液体。
その行方を無意識のうち皮膚感覚でトレースしようとして――――
目が醒めた。
「あれ?」
見慣れた天井。慣れた重みの毛布。肌に馴染んだスウェットの肌触り――――
「……あれ?」
自らの状況を鑑みて、ぱちくりとまばたきひとつ。
もしやこれは。
「ゆ、夢?」
だとしたら――なんて、なんて、
「おきたの? みなみ」
「リー……ザ、」
襖悩を中断させたのは、聞き慣れた声。愛すべき同居人の呼びかけに、どんな身体の反応より早く、頬が熱くなる。
思い出した。
夢であるわけがない、先ほどの一連の行為。ただ、記憶があやふやなのは……?
上体を起こした北原に、牛乳の入ったカップを手渡してくれるリーザレイン。こちらもいささか居心地悪そうにしながら、事の顛末を説明してくれた。
「みなみ、きぃうしなっちゃったんだよ。おぼえてる?」
「ぜ、全然」
「おふろばできれいにして、あがってこっちでふくきて。……ナプキン、おかしくない?」
「う、うわぁあ」
なんてことだ。それじゃあ、目隠しなんてまるで意味など無かったんじゃないか。あられもない姿で失神した自分を、どんな顔をしてリーザレインは介抱してくれたのやら。見ずとも触らずともわかる「下」の感触に、違和感は無い。先刻の簡易的保健の授業がさっそく役に立ったのはなにより。なにより、なのだけれど、それにしたって、それにしたって。
頭を抱えてうずくまる。襖悩再び。ついでに煩悶。
人は恥ずかしさで死ぬことは出来ないけれども、今なら可能かもしれない。いや、今まさに、北原が人類史上における、初の「恥ずかしくて死んだ人」第一号になれるかもしれない。
「え、っと、みなみ? だいじょぶ?」
弱りきった声音。乾いた笑いを浮かべて見せると、吸血鬼は心底困り切った顔になって黙り込む。よく飼い慣らされたペットにとって、飼い主は絶対で。飼い主の意向こそが、最優先事項だから。
「……ごめん、ね、みなみ。あたしがあんなことたのんだから。だからみなみ……」
だがそれは、餌にとっては息苦しい状況になる。
「や、いいんだよ、そんな。わたしがいいって言ったんだから、いいの。リーザは、悪くない。……でも、まあ……出来れば、その、恥ずかしいから、今度からこの方法はなしにしてほしいな」
「ん……ごめんね、みなみ」
カップを空にしたところで、食欲を満たした身体が次を求める。図らずも、生物の三代欲求を下位から順にクリアしていった北原は、その誘惑にあらがえない。顔の半分を口と化すあくびをし、ころりと布団に転がった。
「……ごめ、ちょっと寝るね」
リーザレインの夕食は済んだし、現在特に急ぎの懸案は存在しない。
身体が求めるがまま、眠りの中に埋もれてゆく。
「うん。……おやすみ、みなみ」
「ぅん…………ね、リーザ」
髪をくしけずる指先の優しさ。ここに、北原を傷つけるものは存在しない。その絶対の安心感がひたひたと満ちてゆく。
夢うつつの中、無意識に問いかけた。
「なんで……あんなこと、思いついたの?」
少女/飼い主/餌の対象をぼかした率直な疑問に、吸血鬼/ペット/捕食者はしかし対象を理解した上で率直に答える。
「ああいうふうにすれば、みなみに、きず、つかなくていいかなっておもったから」
いっつもおもってたんだ。
たべなきゃいけないのは、あきらめたんだ。
たべなきゃ、おかしくなっちゃうから。
でも、みなみをたべるには、きずをつけなきゃならなくって。
たべると、みなみのまっしろなくびすじにあかくきずがのこるでしょ。
それがイヤで。
だから、なんとかできないかな、って、ずっとかんがえてた。
でもゴメンね。
みなみがアレ、イヤならもうしない。
震える声。
おびえが、声を、リーザレインを、侵している。
ああ。
夢の底で北原はかすかに嘆息した。
謝らなければならないのは、わたしの方だ。
両腕を伸ばし、適当に見当をつけた辺りの空間を掻いて吸血鬼の身体を探り当て、抱き寄せる。
「ごめんね」
不安にさせて。
言葉が足りなくて。
そっと背を撫でる。小刻みに震える背骨に沿って、何度も手のひらを往復させる。
「リーザにされたのは、いやじゃ、なかったよ」
それは真実。
北原は嘘をつかない。
嘘がつけない。
「ただね、恥ずかしかったの。いろんなこと思い出しちゃったのと、それと、リーザの食事なのに、エッチな風に感じたことが」
思い出した事柄については、話せない。
話さない。
話さないことは、嘘をついているわけではないから、罪悪感など無い。
腕に力を込め、密着する。ペットを安心させるために。柔らかな頬の感触が心地よい。
「そっか。リーザはわたしのこと思ってくれてて、だから、ああいうこと思いついたんだね」
それは、純粋に嬉しい。
でも、あのやり方は、やはり恥ずかしい。
しかし、それでも。
「嬉しい、よ」
肯定。
「でね、そんなに傷ついちゃうのがいやなら……そだね、月一回しか出来ないけど、あの方法で食べてもいいよ」
譲歩。
「リーザがしたいんなら、してもいーよ」
これは、なんなのだろう。
睡魔に浸食された思考が、首をひねる。
命令、なのだろうか。依願、なのだろうか。
ただ、確実なのは。
この肯定も譲歩も、腕の中の吸血鬼でペットで捕食者であるところの同居人を、つなぎ止めておくためのものであるということ。
命令か依願か。そんなものはたいした違いではない。
大切なことは、ただひとつ。
「だから、そばにいて」
リーザレインが、ここにいてくれるかどうか。
「どっか行っちゃ、やだよ」
これは呪縛。
ペットにつけた、首輪と鎖。
最低だ、とあざ笑う飼い主。
知ってる、と微笑み返す餌。
欲しいものは、ただひとつ。
「うん。みなみのそばにいる。ずっといる」
手に、入れた。
唇が満足げに歪む。
欲しいものを、手に入れて。
北原は最後の意識を手放した。
部屋の中。一人、取り残されて。
リーザレインは幸せそうに、幸せそうに頬を緩める。
ここには望んだものが全て在る。
飼い主の腕の中。一人、取り残されて。
虜となった捕食者は無邪気に微笑んだ。
【FIN】