家の近所にはわりと大きな公園があって。
そこにはそこそこの大きさの沼があった。
サイコロ(雑種・オス二歳)の散歩コースに重宝な、沼の遊歩道からは
釣り人の姿が必ず見えて。
それは見慣れたいつもの風景のはずだった。
その女の人は、はっきり言って浮いていた。
(なんでスーツ? なんで釣竿?)
ちょっと郊外の、わりと整備された自然公園。
例えば東屋とか。例えばアスレチック遊具とか。
でもそこにいるには不似合いな、女性。
例えば、一分の隙もなく着こなされたグレーのスーツとか。アイロン掛けにどのくらい時間がかけられているか、想像したくもない。
なのに目の前の人は、そんなこと知りません、なんて顔で芝生に座って
いる。
その手には立派な釣竿が握られていて、もちろんそこから伸びる糸は水
面へとつながっている。
何をしてるのかって、そりゃあ釣りに決まっているわけだけど。
その女の人は、はっきり言って浮いていた。
やってることは、場所に見合ったものなだけに。
なまじ、顔立ちのきれいな人なだけに。
へんなの。
ふと、手の中でリードがくねった。足元に目をやると、待ちぼうけをくったサイコロの、不満気な眉間。
「あはは、ごめんごめん」
ご機嫌取りに頭を一つ撫でてから、これまでの行為を再開させる。
やっと桜のつぼみがほころび始めた、四月のある日のことだった。
これが、一日目。
そして次の日も。そのまた次の日も。そのまた次の次の日も。
風のにおいが変わって、若葉が芽吹き、制服が重たい冬服から中間服に
衣替えされても。
そこでその美人は太公望を気取っていた。
スーツ姿で。
すっかり私はその風景を受け入れてしまい。
毎日女性が見せる着こなしが楽しみになり。
逆に姿が見えないと心配になるほどだった。
どうしたんだろ。
用事があって来れないのかな。
病気とか怪我してなきゃいいんだけど。
なんて。
一学期の第一関門、中間テストも済んで、心も足取りも軽くサイコロとお散歩。
テスト期間中はお父さんにまかせっぱなしだったから、久々に沼へ行けるのが楽しみでしょうがない。
ぐるりと遊歩道を進む。
ここで手抜きをするとサイコロがすねるし、それに、私の目的はあくまで散歩であって、あの太公望さんを見ることじゃないのだから。そう、散歩散歩。けして、
お近づきになれたらいいのになあ、なんて考えてないよ?
すっかり葉が生い茂って、見通しの悪くなったカーブを進む。自然と一歩一歩
の歩幅が大きくなって、足の動きが速くなる。
伸び放題のからたちの植え込みが途切れた。
いた。
いつもの定位置に、いつもどおりスーツで。
今日のスーツは、合わせた小物やシャツなんかは違ったけど、初めて彼女を見かけた時のものと一緒だった。
これは前々から思っていたことだけど、なんというか、すごい、オトナのオンナ、
ってかんじがする。
こう、着こなし方とか、居住まいとか、化粧の感じとか。
……服の上からもわかるスタイルの良さとか。
自らを省みて、年の割にはいささか発育の足りない身体や、それにベストマッチな童顔とは大違い。
あこがれの、理想的な、いつかああなれたらいいなあ、なんて。
まあぶっちゃければ。
きれいな人だなあ、って。
なんて油断してたら。
「わ、ちょ、サイコロ?」
サイコロにリードを取られた。ぎゅいぎゅいとすごい力で一目散に駆けてゆく。
私に出来るのは、転んだり引きずられたりしないよう、必死に足を動かすことと。
「あわわわわ」
目的地になるであろう釣り人に、一刻も早く危機を知らせること。
「あ、あぶなーい! 逃げてー!」
「え?」
衝突による人身事故は、不幸中の幸い、水難事故には至らず、最小限の被害で済んだ。
グレーのスーツにべったりとついた足跡。
一分の隙も無かったそれに汚点をつけた元凶を、一つたたいて反省を促すけども、素知らぬ顔でわふん、と鳴いてみせるだけ。それどころか、自分が叱られてることもわからずに、構ってもらえたことを喜んでいる体たらく。
ペットは飼い主に似る? 断固否定させてください。
「ほんっっとうに、すみませんでした!」
「いいのいいの。こんな格好で釣りしてる私が悪いんだから」
「でも、せめてクリーニング代だけでもっ」
「いいのよ」
パーカーのポケットに入れようとする手が、やんわり掴まれた。鼻先をかすめる、フレグランスのいい香りと、手のひらにあたる、手入れの行き届いた爪。
心臓がひとつ、強く脈打つ。
「学生さんが、そんなこと気にしなくてもいいの。ね?」
極至近でのぞき込んでくる、瞳。またひとつ不整脈。
「これがうちの上司みたいな脂ぎったオヤジだったら、いくらでもふんだくって
やるとこだけどねー?」
きれいな顔いっぱいに愛嬌ある笑顔を浮かべて、ぽんぽんと私の頭をたたく。座ってるときはよくわからなかったけど、この人背が高い。モデルさんみた
い。……いーなあ。私ももうちょい身長欲しいなあ。160センチ、なんてぜーたくは言わない。せめて155センチ欲しい。
いやいやそうじゃなく。
「で、でも、それじゃいくらなんでも。きちんとおわびさせてください」
「んー……じゃあ……」
私の頭に乗せた手はそのままに、腰を折って目線を合わせると、とろけるような笑みを浮かべて。
「じゃあ、これクリーニングしてる間、時間つぶしにつきあって?」
「へ?」
きょとん、としてると。
「お茶でもしませんか? ってこと。片づけるから少し待っててね」
さっさと話を切り上げて、とっととこの場を離れる準備に取りかかる女性。
いやいやいやなんなんだろこの展開。嬉しいけど、でもなんかこれって。
……いいの?
「いやあのちょっと待ってくださいその」
「おわび、してくれるんでしょ?」
「う」
釣竿をしまって準備万端。番犬には向かない人なつこさを発揮して、早速じゃれつくサイコロの頭を撫でながら、
「さ、行きましょう」
「……はい」
いきなりのことで、まだいまいち状況が把握できないんだけど。でも、なんか、
ラッキーかもしんない。
あれ?
「あの、バケツとか、釣った魚を入れる道具は無いんですか?」
見れば、女性の荷物は釣竿とOLさんらしいバッグだけ。
「キャッチアンドリリース」
「きゃっちあんどりりーす?」
専門用語がわからないでいる私の頭を撫でて、太公望さんはまた微笑んだ。
「今日は、無理っぽいけどね」
「?」
「大物も釣れたことだし」
「??」
お互いにお互いのことが気になっていたことを知るのは、アールグレイの香り漂う喫茶店にて、三十分後のこと。
【FIN】